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12月2日(火)奥克彦さんのイラク頼りから
イラクで狙撃された奥克彦さんが、イラクから頼りを送っていたと聞き、早速覗いてみた。
4月23日からの頼りである。戦争が終わって、まだ不安と混乱が続いているイラクで現実を見つめ、何とかこの国を助けたい。と活動している様子が伺われる。
今、世論は自衛隊のイラク派遣をどうするか?と議論が進んでいる。
狙撃されたお二人はどんな思いで、イラクに渡ったのだろう?彼らはイヤイヤ、イラクに渡り仕事していたのだろうか?
その心理が見えるかもしれないと思い覗いてみた。
4月23日から送られてきた便りは全般は毎日である。イラクの今の様子。助っ人井ノ上さんが来られたときの喜び。アメリカから来ている派遣団の様子。読み進む内に、涙が出てきて止まらない。今日はこの辺でやめよう。
彼はイヤイヤ、イラクに入った訳じゃない、この国を何とかしたい。その為に出来ることを彼は一生懸命に考え、動いていた。
単なる使命からだけじゃなく、彼は誇りを持って自分の意志で何とかしたいと心底思い動いていた。そう思うと尚更、残念でならない。
イラクは戦火直後。当然身の危険を感じながら毎日を暮らしていたに違いない。
今、国がイラク派遣をどうするか、検討している。
もし、息子が派遣の渦の中にいたとする。息子はイヤイヤだが命令だから仕方ない状態だったら「貴方仕事やめなさい」と言うだろう。「そんな危険をおかしてまで行くなんて、冗談じゃない」と怒り狂うかもしれない。
しかし、息子が進んで行くと決断し、行くなと言う私を説得したら、私は泣く泣くでも顔は笑って送り出すかもしれない。(万が一でもそんなことは起きないと思うが・・・だからこんなことが言えるのか?)
今朝、家族がバクダット入りの為に飛行機に乗っていく様子が写り出された。その姿は泣き崩れる様子ではなく。静かに彼らを迎えに行くようにも見えた。ある一種の覚悟があったのかもしれないと、勝手な推測をして見ていた。
「派遣をする、しない」なんだか第三者が人を者としての議論をしているようでならない。
奥克彦さんのイラク頼りが見られます。一部分だけ抜粋しました。
イラク頼り5月4日(途中からの文書です)
私がとても嬉しかったのは、バグダッド配電所の次長で引退した(といっても、まだ47才で、2年間投獄されたために、解雇されてしまったようです。)Makiさんが、「是非、日本にイラクの再建に協力して欲しい。」と言ってきてくれたことです。彼はかつてイラク第二の都市バスラで日本の企業と一緒に発電所の仕事をやり、日本にも研修で来たことがあるとのことで、私を見るなり直ぐに近寄ってきて、そういってくれました。
私と殆ど年齢は変わらないのですが、彼の顔に深く刻み込まれた皺は、獄中での生活の厳しさを物語っているようでした。投獄された理由は語ってくれませんでしたが、今は、引退の身で、給料など払ってくれる政府がまだ存在しませんので、無給で発電所の稼働推持に駆けつけてきているとのことでした。Makiさんは英語を操って、熱心に電力再建の必要性を語ってくれました。
残念なことに、戦争による直接の被害ではなく、略奪によって機材が持ち去られ、電力が安定供給できないのです。でも、会議に出てきているイラクの人の目には、1時間でも早く電力の安定供給を実現したい、という気特ちが表れていて、イラクの将来は大丈夫だと思わせてくれるもの
イラク便り 〜サッダームがいなくなって本当に良かった!〜
平成15年5月6日(火) 在英国大使館 奥参事官 (CPAを通じた人的協力に参画中)
学校へ帰ろう! 今日は、井ノ上書記官と二人で、ORHAの教育担当チームに入れて貰ってマンスール地区にある小学校、中学校を訪問しました。マンスール地区はバグダッド市内の「高級住宅街」ともいうべき地区で、ここの学校の状況が平均的な姿ではありません。もっと貧しい人々が多く住んでいる地区の学校も沢山あります。でも、この地域の学校でさえ、中に入ってみるとサッダーム・フセイン体制の残滓があちこちに見受けられます。 私たちが最初に訪れたのは、生徒数900人の共学のディジュラ(Dijla)小学校です。校長先生は女性で、熱心に学校の様子を語ってくれました。昨日、『学校を再開するよ』と近所に声を掛けたら300人くらいの子供達が集まってきてホッとしたとのことでした。イラクの休日である金曜日が明けた10日の土曜日から授業が再開できるように、先生達にも学校に戻って来て欲しいと呼びかけているようです。学校の中はあまり傷んではいませんでした。教室は40人弱が入れるような大きさで、ちょうど私の子供の頃を思い出させてくれます。英米の小学校と違って、大人数の教室です。なんでも、聞くところによると、70年代にUNESC0の認定で、当時のイラクは中東でも屈指の教育水準にあったらしいのですが、それはサッダーム・フセインが、学校に子供を行かせない親を投獄したりする厳罰主義を採った結果、識字率が大幅に改善されたからだそうです。逆に言えば、サッダーム・フセインの下では自由なカリキュラムを作ることは許されていなかったのです。 このディジュラ小学校でも教室の片隅にうち捨てられたサッダーム・フセインの「善行」を語った副読本がありました。また、全ての教室にはサッダーム・フセインの写真が飾ってあったようで、まだ、全部は取り除かれていません。子供達のトイレや水飲み場の改善も大事なようです。下痢や感染症の原因にもなることがあるからだそうです。こんなところにも、日本の援助が出来ればと思います。日本も、私の両親の世代は、第二次世界大戦直後にUNICEFの支援で粉ミルク等の供与を受けた経験があります。 今後は日本が支援をする番でしょう。 隣接するリサーラ(Risalah)女子中学校も訪問しました。やはり女性の校長先生で、生徒500人、先生38人で、13才から16才までが通っているようです。ここの校長先生は英語が上手で、兄弟の中にはロンドンに住んでいる人もいるようです。 ただ、いずれの学校もまだ再開していませんので、生徒達の姿はまだ見られませんでした。学校再開のためには、先生達の給料の確保と文房具が必要です。既に、0RHAでは一人当たり20米ドルの一時金を先生達に配っていて、先生達も職場に戻りつつあるようです。勿論、20ドルでは食べていけませんので、1ヶ月後には、本来の給料を支払う予定です。また、文房具は、アフガニスタンでも成功を収めた、「学校へ帰ろうキャンペーン」の下で、UNICEFと協力して、簡単な文房具セットを出来るだけ多くの子供達に配ることを日本政府は検討しているようです。学校が再開されると、道でサッダームの肖像がついたイラク・ディナール札とドル札との交換をせがむ子供達も減ります。事実、クウェート国境の港町ウンム・カスルでは、学校が始まってストリート・チルドレンが激減したようです。 最後に、かつてはアメリカン・スクールだった、バグダッド女子中学校を訪問しました。年間5万ディナ一ルを払える家庭の子女が通う裕福な学校で、制服を着た女子生徒が授業を受けていました。この学校は高額な授業料の大半が高等教育省に召し上げられ、残った僅かなお金から毎月ドルの給与が先生に払われていただけのようです。英語がとても上手な生徒が真っ先に尋ねてきました。"Tell
me what is my
destiny."(この先私の運命はどうなるの)。裕福な家庭の子供達ですら、不安げです。でもここでは授業が一応続けられていて、「良かった、良かった。」という気持になりました。おそらくここが今のバグダッド市内では一番恵まれた学校でしょう。他の全ての学校はここよりずっと酷い状態に違いありません。先生達も、カリキュラムをどうすればと思案しているようです。少なくとも、初等教育の場では、相当程度、サッダーム・フセイン礼讃の授業があったようです。 帰り際に、一人の品の良い薄化粧をした女性がツカツカとやってきて、井ノ上書記官に早口のアラビア語で何やら訴えています。井ノ上書記官に訊いてみたら、「治安も、電気も、水もまだ充分じゃないけど、サッダーム・フセインがいなくなって本当に良かった。これだけは言いたかった。」と語ったそうです。 そして帰りがけに私の方をみて、"Sadaam,
very bad!"といって立ち去っていきました。 |