5,きゃろっと開店
我家の地所は店舗用地である。
よって何らかのお店をしなくてはならない。
しかし虻田から恵庭に家を建てるだけで精一杯。屋敷内に店舗部分は作った物のどんな店をしてどんな商品を並べるのかは実のところ何も決まっていなかった。
イメージとしては商品に生ものは置かない。
多少休んでもお客さんに迷惑が掛からない。
主人も言っていた通り最初は「趣味でしている店」で良いかなと考えていた。
趣味というと・・・むかし・・・ちょっと・・・いやかなり、むかしだが
私は服飾デザイナーなる物をしていた時期があった。洋裁学校で3年学び就職活動の時、私のデザイン画を持って3カ所の会社にアプローチを掛け、3社から合格通知を貰った。
「凄いでしょう・・・これが私の実力さ!」
今でも唯一、こども達に出来る自慢話がこれである。
洋裁学校時代での私のあだ名は「漫画さん」だった。本科、師範科、デザイナー科となっていて、1年ごとの卒業で、デザイナー科まで進むものは本科の10分の1の人数にしか満たなかった。
各種学校ということもあって、生徒は高卒、大卒、OL経験者、看護婦さん、奥さんと様々で、田舎から出て来た私は、こうした仲間達の話のどれもが刺激的で新鮮だった。
入学式の日に、背はスラリと高く色白で目鼻立ちがクッキリ、一際目立つ女性がいた。私はてっきりモデルさんが来ているのだと思い込んでいた。その彼女が次の日も、又次の日もやって来て授業を受けている。それを見て「えっ〜彼女生徒さんなんだ」と、納得した。(札幌は違うね・・・美女が生徒でおかしいかい・・・・いえいえそんな事じゃないけれど)
奈々ちゃんとは本科では別のクラスだったが、師範科で同じクラスとなった。
美人は3日で飽きると言うが、アレはウソだね。綺麗な人はずっと見ていても飽きないよ。性格が悪かったら別だけどね。
本科も数ヶ月過ぎたある日、繋ぎのジーンズにアフロヘアーのズーさんはギターを持ってきて休み時間に歌を歌い出した。
「それ踊れる!」と言って、カンちゃんはズーさんのギターに合わせて踊り出した。ズーさんも「私も踊る!」と言い出した。
「ギターが無くなるじゃん」とカンちゃんは口を尖らせた。
「いいよ、口でリズムとれば良いから・・・」と、ズーさんは踊りながら口でリズムを取った。
何時もはクールな猫さんがさっとズーさんのギターを持って弾き出した。(これもかっこ良いと、思ったよ)
教室内のみんなもカンちゃんとズーさんの後ろに付いて踊りを真似た。
最初はどうも足が付いていかなかったが、ズーさんの絶妙な合いの手を入れた指導で、すぐ踊れるようになった。
こうして時々教室は、ダンスホールに早変わりし、S先生も時々加わった。
この時の成果は凄かったね。本科の卒業式の日に初めてススキノのダンスホールに向かったが、常連さんと同じように踊れたからね。
クラスは毎日、今日は何があるかな?と言う雰囲気があった。何もなくてもみんなと会えることが楽しかった。
田村さんは、あだ名付けの名人で私の「漫画さん」のあだ名も田村さんが銘々してくれた物だった。
私は洋裁も好きだったが絵を書くことが大好きで、クロッキーの時間やスタイル画、色彩学の時間は休むことはなかった。しょっちゅう絵を描いていたから「漫画さん」となったわけ。
それに、お料理の時間もあって、こちらも皆勤賞。
話が逸れるが、学院のクリスマス会は色々な工夫があって、とても楽しかった。それに、女性の園のせいか料理には力が入っていた。今でも覚えているが、ホテルで出てくるような素敵なお料理がテーブルいっぱいに並んで、食いしん坊な私は1品1品運ばれる料理をどれから手を付けようかと、目を走らせ品定めした。
3年間の有意義な洋裁学校生活が終わり、私はプレタ(既製品)のデザイナーとなった。
あの頃は横文字職業にあこがれていたころだったからデザイナーという職業がものすごく魅力的だった。しかし、いざなってみると考えていたのとは違っていた。作りたい商品と、売れる商品は全く別物だし、営業の人から指摘される箇所も自分の納得行く物ではなかった。
パリのオートクチュールかプレタポルテのデザイナーなら格好良かったんだろうけどね。
そんな私は2年後。縁合って今の主人と見合いをし永久就職に付いた。何ともない普通の話である。
さて、デザイナーをしていた頃、私は生地屋さんとか付属屋さんにちょくちょくお邪魔していた。そんなこともあって手芸やさんなら、商品は腐ることもないし、流行もそんなに無い。多少休んでも、お客さんもそれほど困ることも無いだろう。
今の私にはピッタリ!!!と考えた。
子ども達も学校に通い出し少々余裕が出来た頃、札幌まで仕入先を探しに行った。
以前知っていた。生地問屋さんに附属問屋さん。それに飛び込みで入った附属屋さん。
何度か行ったり、店舗を見に来てもらったりしながら、商品を決め納品してもらう。どういう商品内容にするかは、私も想像も付かず問屋さんの意見が強くなる。
「こんな物売れてるの???」と思っても。問屋さんが
「これは、今売れているんですよね・・・」なーんていわれると、信念の無い私は追、そうなのかな?と思い言われるままに品揃い。
これがダメなんですよね。やはり、やるときに綿密な調査とこだわりが必要だったんです。(綿密な調査なんかしていたら店なんか開かなかったかも・・・)
こんな物?と思った商品は、はやはり売れなかった。(トホホ)
今ならこんな仕入れはしませんね。
最初の資金は主人に頼んで軽自動車1台分の資本金を調達。しかし、その後の仕入れは家計簿からは入れないことを心に決めていた。
無鉄砲な私でも全く計画性がないわけでは、ないのです。
店舗の中に重機が入り商品が揃うと、ちゃんとしたお店屋さんじゃありませんか。
「私の店が出来た!!!」
嬉しかったですね。
なんてったって(売れたって、売れなくたって)私のお店ですから。
最初の頃は洋裁教室やらパッチワークの教室もしていて結構人の出入りは多かったし、それなりにお店やさんっぽかったのですが。
その後趣味に走った訳で、
人形劇やお芝居していたときは、布や付属品がすぐ手に入るので結構便利だったのだが、その後活動が人形劇だけに止まらず。花のまちづくりの方が忙しくなると、ゆっくりとお店を構えていられなくなった。
何時もカギの掛かっている店じゃお客さんだって遠のきます。
最初からお店でガンガン儲けて仕事をしようとは考えていなかった事もあって、何時しか休みがちになり10年を迎える頃には遂に「きゃろっと」は店閉じまい。
商売は特に設けることはなかったけれど、特別損をしたわけでもない。
「ボランティア、私がしないで誰がする!!!」
こうして、365日の2/3がボランティア生活になって行く。
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