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1.まちを舞台に
このところ、ガーデニングと言う言葉が大ブレイクしたおかげで、私は北海道ではちょっと名の知れた人間に成りつつある。
数年前になるが、息子の新五が大急ぎで学校から帰って、いつものように靴は左右バラバラに脱ぎ散らかし、カバンは廊下に放り投げ、すっ飛んでトイレに入ったかとおもうとドアを半開きにして用を足しながら
「母さん!今日,学校でみんなからお母さんがテレビに出てたの見たよ!って言われて、俺チョー恥ずかしかったんだから・・・・」って言い。スッキリした顔から不機嫌そうな顔になり私の顔をにらんだ。
又その当時、函館に単身赴任していた主人には、同じテレビを見ていた取引先の社長から主人の会社に電話が入り
「今、テレビに出てる人、もしかして内倉さんの奥さんじゃないかい・・・?」と連絡が入った。
そんな話を、週末に帰ってきた主人が私に教えてくれた。
私は神様に誓って主人にも、息子にも、その他の家族に対してもテレビに出て恥ずかしい事など何一つ行っていません。・・・本当に!
しかし、家族にしてみればある日突然、家の母さんがブラウン管に写ったらやはりビックリ仰天するらしい。
今や恵み野は北海道のガーデンシティーとまで呼ばれるようになった。(ちょっと大げさかな・・・)もしかしたら一部の人がそう表現してくれている位かも知れない。が・・・しかし、ガーデニング人口は他の市町村に比べると格段に多いし。
近年では、何故こんなに花で綺麗になったのか?
花のまちづくりがどのように行われてきたのか?等々
花のまちづくりを進める市町村が多くなっている昨今で、行政主導でない花のまちづくりがどのように進められて来たのか・・・その辺のところが聞きたいらしい。
そこで、その事情を知っている私が度々講演会なる物に駆り出される様に成ってきたのである。
今回の講演会の内容は、「花のまちづくり」だけでなく、まちづくり全般に関わってきた経験を話してほしいと北海道庁建設部(まちづくり)の河田さん、横田さんに頼まれた。
講演当日は、東京に行く用件が入っていたのだが、そちらをキャンセルしての講演会だった。会場には「北海道の花と緑の表彰式」と言うこともあって150人位の関係者の方たちが詰めかけていた。
北海道のテレビではおなじみの橋本登代子アナウンサーの紹介で私は壇上に上った。
花と緑のまちづくりシンポジウム
2,000年10月27日
札幌ーホテルKKR
基調講演「街を舞台に〜地域コミュニティーと花のまちづくり」
内倉真裕美 (北海道景観アドバイザー・恵み野花づくり愛好会)
皆さんこんにちは。
いつもは「花」というと花だけの講演会になるのですが、今回は「まちを舞台に」という演題はどうかというお話がありまして、そのネーミングにひかれて、実は今日は東京に行く用事もあったのですが、そちらを蹴ってこちらをお引き受けしたわけなんです。私は花よりも前から演劇にも取り組んでいました。花も舞台も人を巻き込みながらやってきたというか、自分個人だけのことではなくて、自分の住むまちをこんなまちにしたい、自分のふるさとづくりをしていきたいというところからスタートしました。文化の香るまち、そしてお花であふれた素敵なまちに住みたいそのためには自分自身もいろいろなことを勉強していかなくてはいけないし、人を巻き込んでいかなくてはいけない、ということで進めていったわけです。
まちづくりは人形劇からのスタート
最初にやっていた演劇のほうについて、まずお話をしたいと思います。
私は1988 年に新興住宅街の恵み野に虻田町から引っ越して来ました。主人が転勤族だったために住まいは転々としていたのですが、恵み野に住居を構えて、子供達と一緒に来たわけです。その当時は信号も1
つもなくて、ニョキニョキとたけのこのようにどんどん住宅が建ち並んでいくような状況でした。
私の住んでいる場所は8 年くらい経っていて恵み野では古い街並みでしたが、まだとてもきれいでした。しかし、それは「まち並みがきれいというより建物がきれい」だったのです。
市の方から「新興住宅街はできた時は,たしかにきれいだけれども、10 年、2
0 年、30 年と経っていくと古びていく」というお話を聞いて、かなりショックを受けました。これはなんとかしなくてはいけないと思ったわけです。お花で身の回りをきれいにしていくことが、住宅や住んでいるまち並みをきれいにしていくことにつながる、ということも教えていただきましたが、その時はみんなが花できれいにするなんて,とても考えられませんでした。
自分1 人が花できれいにすることはできても、周り全体が花できれいになるなんていうことは,ないと思っていたわけです。そこはまたあとでお話したいと思います。
ではまず、なぜ私が地域で演劇でまちおこしをしていったかということですが、越して来た時に恵庭には文化的なものがほとんどないと聞かされたんです。皆さんは何かあると札幌に出て行ったり、いろいろなものを見に行ったりと、文化的な活動というのは結構札幌に逃げているという,お話を聞きました。
私は以前いたところでは、子供達に人形劇や読み聞かせなどの活動をしていました。それでさっそく前にいた虻田町のサークルの友達から大きな巻物の紙芝居を借りてきて、自宅の大きな梁からぶらさげて、紙芝居をしました。
どうやってそれをお知らせしたかというと、うちの子供がそのとき小学校の2 年生と4 年生だったので、お母さん達に「見に来ませんか」とお誘いしたら、なんと100 人くらいの人が家の中に集まったんです。びっくりしました。口コミで人がどんどん集まったので、家のふすまなど余計なものはすべて取り除いて、そこで見ていただいたんです。
それをきっかけに「おはなしさんた恵夢」と、いう子供達の文化サークルをつくろうという動機になりました。そのときは大きな会館もないので、会員の自宅を回りながら、月1
回の例会を進めていったのです。そのうち町内会の中にも西会館という建物ができたり、少しずつ公的な場所も増えてきました。また、そういうことをやっていると、出たがりの子供達も多くなってきたり、学校でもお母さん達が人形劇をやったりして、いつしか学校の先生とも、とても仲良しになり、その先生も引き込んだりしながら人形劇活動をしていたわけです。
野外劇への挑戦
ある日、お母さん達が集まった席で「恵み野にある野外音楽堂で野外劇をやりたいね」という話になったんです。それがたしか5
月の末だったと思うのですが「いいね」ということになって話がどんどん盛り上がり、小学校の先生や有志が中心になり、すぐに事が進んでいきました。第1
回目の集まりを6 月10 日に開いて、そこで7 月31 日にやろうという話になったんですが、それだと2
カ月もないわけで、それはやめたほうがいいということで、8月28 日に変更することになりました。
それは平成5 年のことでした。お父さんやお母さん達が集まってどうやっていこうかと構想を練りましたが、6
月10日の時点で実は台本はまだできていなかったんです。プロットというか骨組みだけはできていましたが、まだ完璧ではありませんでした。また、どういうスタッフが必要になるかということで、まず大道具係とか宣伝係、衣装を集める係、演技指導の係、記録係と分けていったのですが、ほとんどの方が当日の役者さんとスタッフと両方を受け持っているので、かなり大変な作業なんです。
今まで小さな演劇はやっていたのですが、そういった大きなものは初めてでした。
芝居には鳥や動物達、それと若者が出てきます「エ・エン・イワ」という作品なんですが、これは恵庭岳のことです。鳥や動物達、鮭などが時代をずっと見ていたという、時代の流れを経過する作品でした。
最初に集まった時は1 0 数名のスタッフでした。作品をつくったのは吉弘文人先生という小学校の先生だったのですが、先生に「役者は何名必要なのか?」と聞くと、だんだん人が増えていくんです。最初は50
名くらいで出来そうだったのですが、鮭は何10 匹必要だとか鳥は何羽必要だとか、そのたびに人の確保をしていかなければいけないのです。先生の脚本はまだ途中で構想も開発途上だったんでしょうね。
ということで、結局200 名くらいの出演者を集めることになりました。練習の都度、新しい脚本が舞い込んでくるのですが、先生と私の2
人で演出を担当しましたので「ここはちょっと無理があるんじゃないだろうか「ここ」、はこうしたほうがいいんじゃないだろうか」と夜中の電話でお話したり、進んでいきながら台本が何稿も変わって行きました。
そうしてやっていくうちに、はたと気が付いたら、どうしても出なきゃいけない人(役者)がいないんです。いろいろな決めごとやアクシデントが出てくるものですから、それどころではなくて、ずっと代役で稽古していたんですが、衣装もできあがっているのに役者がいない。みんなが当日は誰かが来るのだろうと思っていたんですね。3
日前までいなかった役者が2名、2 箇所ありました。中山久蔵さんという恵庭でお米を一番最初につくった方の役とか、結構重要な役が3
日前になってもいなかったりなんですよ、今では笑い話ですがとんでもないことですよね。
スタートの場面で謎の老人役をやる方は1 週間前にゲットしました(笑)。この方とはこの時の縁が機になりまして、今は花のほうでいくつも会長さんを引き受けてもらっています。北大の名誉授の若濱五郎さんとおっしゃって、北大の低温科学研究所の所長さんをなさっていた方です。
役者さんを200 名集めるというのは、もう誰でもだまして連れてくるようなもので
「こういうのをみんなでやろうと思うんだけど、あなたはこの役にすごく向いていると思うんだけど・・・」と熱っぽく語り、相手をその気にさせる。こうせて、だまして、だまして、役者発掘するのです。 夏祭りの時に恵庭のすずらん踊りというのがあって、若濱さんはそこで浴衣を着て裾を後ろのほうに、ひょいと引っかけて踊っていらしたんです。その姿を見て、インスピレーションでこの人しかいないと思いましたね
「先生、演劇は好きですか」と聞いたら
「昔、藤岡弘が僕の役を日曜劇場でやったことがあるんですよ」という話になって、延々と30 分ばかり立ち話。それで興味がありそうだなと直感したんです。
「今度練習があるんですけれども、見に来ていただけませんか」とお話しましたら
「いいよ」ということで見に来てくれたんです。その時には、もうこの先生をゲットしないと大変だと思っていたので(笑)黄色い蛍光ペンで台本に印をつけて
「先生、しゃべりはマイク(声優)の人がいるので大丈夫ですから。ここのところで歩いて出て来てください」と、お願いし先生も
「何がなんだかわからないけどこうかい」なんて言って、1 週間くらい前にトップバッターで登場する老人役の方ができあがったわけです。
準備に奔走、そしてリハーサルへ
この野外劇をする時に、大きなスポンサーということは全く考えていませんでした。やる人間が頑張ってやるんだということで、出演者がお金を払うことにして、大人3,000
円、高校生1,000 円、小中学生が500 円というのをみんなの出演料にしました。
でも進んでいく中で結構お金がかかってきます。全部で30 数万円くらいしか集まらないんですが、大道具係のほうからは山をつくりたいという話が出てきました。どの程度の山なのかと思ったら、ビデ足場5
段くらいのがないと、後ろの家が見えてしまって恵庭岳だと思えないというのです。 そうすると私の脳裏が働き、建築屋さんのところに行こうとか、足場にかける布をどうしようかとか、いろいろ考えるわけです。その前の年に私が演劇をしていたときに自衛隊の偽装網というのを見たのを思い出して、これだけのものを隠すには自衛隊さんにお願いするしかないと頼みに行ったりしました。
それから足場を貸してほしいと図面を持って頼みに行ったら「こんなの素人さんだけでは建てられないよ」と言われたんです「貸すだけならいいけれど、建てられないと困るだろうから1
人指導する人をつけてあげる」と、前日の作業に足場とトラックと人も出してくれました。
野外音楽堂の客席が坂になっているので、後ろのほうの客席から見ると、舞台の後ろにある家が見えてしまっていたのですが、足場を5
段組んで、やっと山と木だけしか見えない状態になったわけです。
衣装は、家から200m 先くらいの西会館というところを借りて、みんなで持ち合った布でつくったのですけれども、1
人の衣装代が300円くらいなんです。
白鳥は白いシーツを集めるだけ集めました。老人施設やホテルに頼みに行って要らなくなったシーツを集めてきました。
それと北高という学校の学校祭で使用した。樽木を貰い。仮装行列を見て必要なものすべてもらってきたんです。もう要らないという衣装の余ったものも20 袋くらい持ち帰ってきました。
普段の日は男性はみんなお仕事でいないわけで、日数を考えても、絶対人数が足りないのです。それで何か集めるというときもすべて女性が行うわけです。
コンクリート屋さんの奥さんがいて、その方がトラックを出してくれまして、運転しながら自衛隊へ行き、高校へ行き、というふうにやっていたものですから偉大な女性達を称えて男性陣は「アマゾネス軍団」と呼ぶようになりました(笑。)
ものが借りていた空き地にどんどん山積みになっていきました。
本番前日の8 月27 日は雨降りの中の作業でした。最初はみんな元気いっぱいだったのですが、1
日2 〜3 時間しか寝られない日がずっと続いて、この頃は睡眠不足の状態でした。テントを3
日間立てて作業をしましたが、人が人を呼んで、この時にはまったく知らない方も手伝いに来てくれていたという感じでした。
当日は台風が来るという予報だったのですがどうしても延期はできません。というのは音響設備も借り物だったのですが「その日だけいいよ・・・」ということで、技術者の方も札幌から無料で来てもらうことになっていたのです。
個別の練習はあちこちの会場を使いながらやっていたのですが、200 名もいたので、全員が集まった練習というのは前日しかできませんでした。前日のリハーサルのときも一応音響は借りていたのですが、台風の影響でどこかに雷が落ちたらしく、停電になって電気がつかなくなってしまったんです。それで真っ暗な中で、車のライトを両側からつけて、電池式のカセットで音楽を流し、ハンドマイクを使って声を出してリハーサルをしたんです。
やっと電気がついたのは、皆さんが引き上げたあとで、夜中の12時を回っていました。
ところで、動物達が藤棚の上に登るシーンが出てくるんですが、どうしてもそこに置く板を買うお金がないんです。当時、私はJC
青年部のデザイン会議の副会長をやっていて、その会議の時に「野外劇の準備は進んでいるかい?」と聞かれたので
「建築屋さんで板を貸してくれるところはないだろうか?」とお話したんです。そうしたら前川さんという方が
「何を言っているの、どうやってやるつもりさ」と言うので
「藤棚に板を置いてロープで縛ろうと思う」と答えると
「人を殺してもいいのかい?」と言われてドキッとしました
「紐なんかで縛っていたら引っかかって怪我をけがをする。もし間違ったら人が落ちて死んじゃうかもしれないそれでもいいのかい」と怒られたんです。
その会議は大事な話があったんですが、それからすっかり「エ・エン・イワ」会議になって、藤棚をどうするかという話になりました。
そして、コンパネを借りることができたのですが、ただ置くわけにはいかないから、きちんと樽木で打って留めることになりました。前川さんが現地の藤棚まで行って、必要枚数を調べてくれて、設計図も書いてくれました
「だけど樽木だけは買いなさい。樽木は釘を打つから返すわけにはいかないよ」と言われて、赤字になったらみんなでお金を出そうということになり、8
万円くらいの樽木を購入したわけです。そして本番前日、雨の降る中、前川さんがテントの中で山積みになったいっぱいの樽木とコンパネを積んで、汗だくになってガンガン釘を打っているんです。まるで、ベテランの大工さんの用に見えたのですが、実は前川さんは設計士さんで、大工仕事はあまりしたことはないということで、終わった時には手にマメをいっぱいつくっていました。
前川さんは台本も見ていないし、内容も全然知らないし、本番の日も用事があって見れなかったのですが彼はコンパネを張るという仕事を1
日つぶしてやってくれたわけです。
あとから聞いた話ですが、今ずいぶんお世話になる恵庭市役所の花と緑の課の広田さんという方も、前川さんと一緒にトンカチを握って働いていたということでしたし、当日役者が足りないと聞いて、特別出演を2カ所もしていたと聞いてこれもビックリでしたね。
こんな風に、どこで誰にお世話になったかというのは後になってからどんどん出てくるわけで、その段階では本番に向けてみんなが一生懸命仕事をしていたという感じでした。これを機に私の座右の銘は「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」になりましたね。
いよいよ本番当日へ
本番当日は台風が来るという予報でしたが、お昼には台風は通り過ぎ、野外劇をやることに決定しました。前日はかなりの雨が降っていたので、会場はグショグショの状態で、人が来てくれるかどうかとても心配だったわけですが2,000
人の方が観に来てくれました。
今まで作業をしていた人たちがみんなメーキャップをして役者に変身していきました。作品は、原野という少年が主役で、少年原野が山に導びかれて登って行き、遭難騒ぎになってしまう所から始まります。
雁の子供役の中にはうちの娘もいました。この子は私が恵み野に来た時は、みんなからだっこちゃんと言われていて、とにかく私から離れない子で、よその人にあいそなんて言われたらギャーッと泣き出す子だったんです。会議の時でも「連れておいで」と言われて、ネクタイをつけているおじさんがたくさんいる会議にも娘を連れて行って娘はお絵かきなんかをしながら難しい会議の席に座っていたのです。
いつも色々な活動をしているときには連れて行っていました。元祖アグネスチャンですよね(笑)おやつや絵本を持ちながら花のまちづくりやこうした活動に参加していたわけです。
舞台には、鳥や動物達、農民、若者などが出てきます。うちの息子達も長男はイカダ引き、次男は太鼓をたたいていました。みんな家族総動員です。とにかく空いている人は誰でも使えという状況でしたから・・・・。
「エ・エン・イワ」のクライマックスのシーンは、原野少年が大きくなって結婚するというシーンです。劇中で、原野に子ども(アキ)が出来、原野のお兄さんからアキは
「お父さんがこの山を登ったんだ」という話を聞き、アキが誘われるように山に登って行くのです。
遭難騒ぎがまたよみがえってくるわけです「いない!いない!」とみんなが探していると「エ・、エン・イワ」に灯りがともりますこの灯りは3 日間作業でテントに張り付いていた人が1 つ1 つスイッチをつけると1 個ずつ電球が付くように作られました。だからじっくり、じっくり、1つ、1 つ灯りがともっていくわけです。
ラストのシーンは、白鳥の大群ががキャンドルをずーっと持ってくるんですが、手前はキャンドル、後ろは灯りとなかなか素敵なステージでした。
手前側には川があって、イカダが流れたりするシーンもあったんですが、縁がはがれ落ちすごく汚かったんです。
それが、芝居が終わった後に市の方が「直しておいたからね・・・」と言ってくれました
「客席から見ていたらあまりひどかったのできれいにしておいたよ、いつでもまたやっていいからね」と言われたんです。
結局この舞台を使って野外劇をやったのはこれっきりでした。もうみんなの中には燃え切った充実感があって、この奇跡をもう1度望む気にはならなかったのです。
終わった後実際の恵庭岳「エ・エン・イワ」にはどれだけの人が登っているのだろう、登ってみようか」という話になって、打ち上げのあと恵庭岳にみんなで登りました。
「エ・エン・イワ」を制覇した感じでしたね。
花でまちを演出する花のお話に移りますが、
北海道に212 市町村ある中で、お花でまちづくりを進めていきたいというところが183 市町村あるというふうにお聞きしました。
なぜ今回お芝居についてお話したかというと、まちづくりということを考えた時に、お芝居の他にも色々なものがありますが、組み立てはすべて同じではないかと思ったわけです。
私は演出なども手がけていますが、花のまちづくりを進めるにあたって、まちを演出していかなくてはいけないと感じたわけです。
舞台をつくる時には脚本家が必要です。それに演出家や舞台美術、効果を出すための音響や照明も必要になってきます。そしてもちろん役者さんも必要ですが、役者さんだけでは動いていきません。裏にいる大勢のスタッフが必要なわけです。花もまず、デザインを考えて、植物は何を入れていこうか、四季の移ろいをどう演出していこうかと考えていくと、1
つのお庭も同じように演出になるわけなんです。
まち全体を花のまちに演出していくにはどういうふうにしていったらいいのかということを最初から考えていたわけではないんですが、動いて行く中で、これが必要だとか、こういうふうにしたらどうかということでやってきました。
平成2 年に「花とくらし展」が、恵み野の恵庭ビジネスパークという施設で行われたのです。「その時にこれだ!」と思ったんです。やはり花のまちにしたいと強く強く思ったわけです。
恵み野で花がなぜ広がってきたかというと「花とくらし展」の後、花で世界的に有名なニュージーランドのクライストチャーチに、市の職員の中島さんが市民の方13
名と連れ立って行きました。そして帰ってきた時に、スライド写真をたくさん見せてもらったんです。まちが花に埋もれていて、こんなまちがあるなんて信じられないくらいでした。どうしてこういうふうになったのかと聞くと、ガーデンコンテストだということでした。
それでさっそくガーデンコンテストをしたいということで相談したところ、クライストチャーチに行かれた花苗生産のサン・ガーデンの社長、造園業を営む北集園の社長、それと恵み野で造園・花屋さんをしているリョクサンの社長の3 人の方に中島さんが電話してくれました。
3 人の方々のところに伺って、ガーデンコンテストをやりたいので審査員になっていただきたいということと、資金を出していただきたいという交渉をしたのです。そうしたら快く受けてくれまして
「恵み野でもフラワーガーデンコンテストができるということは素晴らしい」と言ってくれたんです。それ以後、H3年の年にガーデンコンテストが始まり、ガーデンコンテストの審査員の方々は皆さんがお金を出して審査員をしてくれているというのが今も続いているわけです。
ガーデンコンテストは最初のうちは公募方式で行っていました。しかし2 回目の時にあまり人数が増えず、最初30
件くらいだったのが40 件くらいにしかならないので、このまま行くと頭打ちになると思い、3
年目からは公募方式をやめました。
その当時で2,500 世帯くらいあったんですが、自転車で花のあるところを全部写真を撮って回ったんです。
それを「花のまち探検団方式」というふうに名付けました。
勝手に写真を撮って、勝手に審査して、勝手に表彰するというやり方に切り替えたんです。現在は4,200
〜4,300 世帯ありますので、だいたい4〜5 日ほどかけて全部を回ります。コンテストも今年で1
0 回になりましたが、いつも賞をもらうお家がだんだん決まってしまうので、3
年連続特選をとったお家は「モデルガーデン」というふうに決めました。そして、モデルガーデンの中からグランプリを決めてそのグランプリが5
つ花、モデルガーデンは4つ花、一般の特選の方が3 つ花ということにしています。3
つ花が3 年連続するとモデルガーデンに昇格するという方法なんです。今年はモデルガーデンが3
軒増えて、来年は12 軒になる予定です。
花づくりをまちに広げる仕組みこのガーデンコンテストをする時に、商店会をなんとか巻き込まなければ、個人のお家だけではだめだと思いました。というのは恵み野の商店会の前にはかなり広い植樹帯があるので、ここをきれいにしなければ絶対に花のまちにはならないと思いまして、商店会の方にまず主催団体になってもらったのです。資金も要らないからということでお願いして、受けていただいたんですが、ガーデンコンテストの主催団体の前が汚いというのはちょっと弱ったものだということで、理事者の間から自分の前のところはきれいにしようという話が持ち上がりました。
そしてその後何回かやっているうちに、全国花のまちづくりコンクールに応募しないかという話がありまして「花づくり愛好会」で応募したところ、いきなり最高の賞、建設大臣賞をいただいたんです。「花づくり愛好会」というのは最初は私1 人でやっていました。それでガーデンコンテストをやる時に「審査員は花づくり愛好会のメンバーですから」と審査員の方々をメンバーにして愛好会と商店会のダブル主催でフラワーガーデンコンテスト実行委員会をつくってずっとやっていたのですが、 この全国のコンクールに出すにあたって、皆さんにお声をかけてきちんとした組織をつくったんです。最初は42 名が会員になってくれました。
また恵庭には「花いっぱい文化協会」という40 年以上の歴史を持つ団体があります。花苗生産組合が6
〜7 軒あって、そこから文化協会の方が安価な苗を供給してくれるので、学校花壇がすごく充実しています。子供達は花がら摘み、水やりなど、夏休みの間もきちんと当番でやっています。
それから、さらに広げたいということで、町内会も巻き込んでいきました。実は商店街の並びに50 %しか商店会の会員さんがいらっしゃらないので、商店会から皆さんに「花の協力をお願いします」と言ったとしても「うちは関係ない」ということになります。
そこで考えたのが、恵み野の東西南北4 町内会を含んだ恵み野の花の組織をつくろうということで、町内会の会長さんにお一人お一人にお願いに回って立ち上げました。この恵み野花協を生み出すことも、維持していくことも大変な事ですが、成果は大きな事でした。
「美しい恵み野花のまちづくり推進協議会(恵み野花協)は各団体3,000
円の会費で、1 1 団体しかないので年間33,000 円の予算しかないんです。だけど何が一番の目的かというと、回覧板で「花便り」という会報を皆さんに届けること、情報を共有することなんです。 そういうことができないと「観光客みたいな人が沢山来るけれどどうなっているのかわからない」ということになりますが「花便り」を出していくことによって常にまちの動きがわかるということです。これは原稿だけつくれば、あとは必要な部数を町内会で印刷してもらうようになっています。それと、商店会の通りをなんとかきれいにしたいということがありましたので、4
町内会が全部入った花協の文書でお願いしたわけです。
最初の年は60 %くらいのところが協力してくれました。そしてだんだん協力してくれるところが多くなって、現在は90
%くらいのところが花を植えてくれています。
それから大きな植樹桝は「ラベンダークラブ」という商店の女性グループで測量て歩きました。
そして勝手な話なんですが、
「お宅の桝には何株入りますよ、お花の協力をしてくれますか、除草作業はやってくれますか、お金を出してもいいというところはシルバーさんに頼んだらいくらかかりますよ」と、皆さんのところに事細かな見積書みたいなものを持って行ったわけです。一番最初の年はすごく怒られまして
「勝手に計算してお金を出せとは何事だ」というお叱りもずいぶん受けましたけれども、いざ花が植えられていった時に、猛反対した方が
「やあ、きれいだね」と言ってくれた言葉がとても印象的でした。
それと「花部会」というのがあるのですが、1 つの通りに最初の年は1 5
万円、それが3 年間続いていて、今年は20 万円の補助金が出まして、その通りが3
つあります。花部会ではその補助金の使い道として、自分のところはとにかく自分のお金でやる、その代わり誰も張り付いていないところ、交番の横とか空き店舗のところはこの補助金で面倒をみようというふうに進めているわけです。
また、町内会を巻き込んでいる花協がお願い文書を出すと花苗などを買ってくれるところがいっぱい出てくるんです。
しかし町内会を含んだところでお金の管理をするということになると、とてもいい返事はもらえませんので「恵み野花企画」という組織をつくって、そこで全部事務関係の書類をつくっています。
前向きに、そして素敵なまちにするためにこうした組織が次々にうまれて来たわけです
「花づくり愛好会」は個人の花好きさんの組織で、
そこからまちに広げていくためにいろいろな団体をつくってきました。私はそのほとんどの事務局をやっているものですから、とても忙しいんです。
家では、会議のいろいろな資料をつくるのにパソコンを買いまして、すべてフロッピーを分けノートを分けて使っています。
いろいろとお話してきたわけですが、要するにまちを舞台に考えていろいろな取り組みをしていくと結構おもしろいのではないか、行き詰まることも出てくると思いますが、みんなと話し合いながらここをこうするためには、どうしていったらいいんだろうかと、常に前向きに考えていく。みんなで夢を語り合いながらやっていくと自分の思うまち、素敵なまちができるんじゃないかと思います。
どうもありがとうございました。
(参考)恵み野の花に関する団体
■花づくり愛好会:花好きな人達の集まり
■恵み野フラワーガーデンコンテスト実行委員会:商店会、愛好会などで構成
■恵み野商店会(フラワーロードプラン部:商店会のまち並み景観の整備)
■ラベンダークラブ:商店会の女性による花の通りの研究会
■美しい恵み野花のまちづくり推進協議会:東西南北の町内会などで構成
■恵み野花企画(元花づくり愛好会事業部:商店街通りの花苗の取りまとめや管理等の実務)
■花部会:3 つの通りごとの部会
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